星期五, 8月 31, 2007

死の問題こそ 人生の一大事

 「死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」(上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波書店 )
 戸田先生と同じ石川出身の哲学者・西田幾多郎の言葉である。
 この一文を綴ったとき、西田は、6歳の次女を亡くしていた。
 だれもが、いつかは死ぬ。「死の問題」は避けては通れない。
 ゆえに、死について考えるとこは、人生にとって何より重要なのである。
 そしてまた、「死」を学ぶことが、「生」を学ぶことである。「よりより生きる」ことを学ぶことになるのだ。
 御書には、こう説かれている。
 「(人間は)命が終われば三日のうちに、その体は水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく消えてしまう。(しかるに、末法衆生は)そのようにはかない、わが身を養おうとして、多くの財産を蓄える。そのことは昔から言い古されてきたことであるが、現在のその有様は、あまりにも哀れでならない」(御書1389㌻、通解)と。
 仏法が説く永遠の次元から見れば、この世でわが身を飾っている地位とか名誉とか財産など、はかないものだ。
 日本の伝教大師は「生ける時、善を作さずんば、死する日、獄の薪とならん」(塩入亮達校注「願文」、『仏教教育宝典3』所収、玉川大学出版部)と、生命の因果を明快に示している。
 大事なのは、自分自身が「どんな人間であったのか」「どれだけ人に尽くしたか」である。
 結論から言えば、最高の妙法に生き抜く人生ほど尊いものはない。
 人のため、法のため、広宣流布に生き抜くことは、わが生命に何があっても崩れない福徳を積んでいるのである。


--北海道・東北・中部・北陸・信越合同研修会での名誉会長のスピーチ㊦
   (2007年8月31日聖教新聞掲載)

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