仏法の世界は「平等大慧」である。特別な人はいない。皆が本来、仏である。皆が尊貴である。
そのなかでも、私たちは、信心強く、広布のために苦労して戦う人を、最も大切にするのだ。
万が一にも、社会的な肩書や立場、名声や人気などを重んじて、真面目な学会員を軽んずるようなことがあれば、清浄無比なる和合僧を破壊してしまう。
後世のために、あえて、この点は厳重に戒めておかねばならない。
釈尊の弟子の一人である耆婆は、名医であった。
多くの難病を治療し、「医王」と讃嘆された。開腹手術や開頭手術も行ったと伝えられている。大国・マガダ国の大臣ともなり、社会的地位や名声も、大変に高かった。
彼は反逆の提婆達多と戦った。また、阿闍世王を釈尊に帰依させてもいる。
その耆婆が、ある時、師匠である釈尊と仏弟子たちを家へ招いたことがあった。
しかし耆婆は、もの覚えが悪く、愚鈍とされている須利槃特だけは、わざと招かなかった。耆婆は須利槃特をバカにしていたのである。
釈尊は、大切な弟子を見下す、耆婆の傲慢を戒めた。
皆、かけがえのない尊貴な弟子ではないか。それがわからず、仏弟子を見下す者こそ愚かであり、自分自身を傷つけているのである。
師の厳愛に、耆婆は目を覚まし、激しく後悔する。そして、同志とともに、師の広大無辺の境涯に学び、偉大な使命の生涯を全うしていったのである。
創立の父・牧口常三郎先生がよく拝された御聖訓に、「上根(機根の優れた人間)に会っても、自分を卑下してはならない」「下根(機根の劣った人間)に会っても、憍慢になってはならない」(御書466㌻、通解)という一節がある。
この御文を通して、牧口先生は言われた。
「名門の人や、高位高官だからといって、へつらうのも法を下げる。
いばって、信用をなくすのも法を下げることになる」と。
戸田先生もまた、「傲慢」「慢心」を幾度となく戒めておられた。その一端を学び合いたい。
「真の信仰にめざめたわれわれは、福運を消し、自分自身を破壊させる慢心の振る舞いだけは、けっしてあってはならない」
「腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、尊大ぶる愚劣な幹部もいる」
「学会員を馬鹿にする者は誰であろうと、私は許さない!」
「和合僧を尊重して、我見や増上慢の幹部や議員を叱り飛ばし、異体同心の理想的な広宣流布の前進へと戦う人こそが、信心強盛な仏法者である」
――婦人部最高協議会での名誉会長のスピーチ㊤引用
(2007年11月27日聖教新聞掲載)
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