この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実践は、歓喜をもたらします。「凡夫即極」であり、「生死ともに仏なり」との境地が開ける以上の歓喜はありません。
私たちの実践に則しても、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と開く即身成仏の実践は、常にに歓喜に満ちあふれています。
例えば、悩みと真正面から格闘し、本源的な智慧を涌現しているとき、それまでの苦難を包み込む、生命の大いなる底力があふれ、いつしか大歓喜の境涯が生じてきます。
もともと、仏の生命それ自体が大歓喜に満ちているものです。究極の真理に到達した法楽が充満している。不死の境地を得て、永遠に生きる喜びが横溢している。この仏の歓喜の生命を私たちの胸奥から現していくことが、仏界涌現の実践です。
妙法を持ち、いかなる困難にも立ち向かう勇気があれば、この仏の生命が涌現します。どんな絶望にも負けない希望があれば、この仏の生命は絶えることがありません。
それまで悩みや苦難に負けていた自分が、妙法の力によって、悩みや苦難に立ち向かっていく強い生命が自身に備わっていることを知る。広宣流布の大目的に立ったときに、自身の悩みは、仏法を証明する変革のエネルギーになることを知る。悩みに負けない自身の姿が、多くの人を励ましていることを知る。広宣流布のために「戦い続ける心」を持つことで、私たちは、我が身が本来、仏であることを知ることができます。
法華経に「心大歓喜」とあります。「御義口伝」では、この「大歓喜」との経文の一節の脇に、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と注釈されています(788ページ)。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の即身成仏の境地こそが大歓喜にほかなりません。「御義口伝」では続けて、「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(同ページ)と仰せです。
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」は、苦悩や悲哀も、すべて歓喜の生命のなかに包みながら、強靭な大人生を送れることを示しています。
私は、トルストイの次の言葉が忘れられません。
「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい。この喜びが何物によっても破られないように、監視せよ。この喜びが破れたならば、それはつまり、お前がどこかで誤りをおかしたということだ。その誤りを探し出して、訂正するがよい」(『トルストイの言葉』)小沼文彦訳編、彌生書房)
まさに、大文豪が志向した「人生の事業、人生の使命の喜び」とは、仏法の深遠な哲理に通じております。この歓喜を現実に涌現する方途を、私たちは実践しているのです。さらに、”この喜びを破る誤りをたずね、誤りを正す行為”とは、私たちの仏法の眼で見れば、煩悩を転換し、生死を転換する「即」の実践、つまり「煩悩即菩提」「生死即涅槃」、そして宿命転換の戦いといってよい。
いかなる苦悩や迷いの日々があっても、妙法を持ち行ずる私たち学会員の境涯は、実は最高の大賢者の道にほかならないのです。
一切の毒を、妙法の大良薬によって「変毒為薬」していくのが創価学会の信心です。「此の毒を妙の極とは申しけるなり」(1006ページ)
妙法は絶対の人生勝利への宝の法です。一人一人が妙法を根幹に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の凱歌の人生を歩む。その栄光が広がる中に、生死一大事の血脈が万人に流れ通う日蓮仏法の勝利の姿があるのです。
(大百蓮華7月号掲載)
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