星期三, 10月 03, 2007

有言実行の人に・常勝将軍たれ

有言実行の人に
 私は、一人の青年として、学会のリーダーとして、すべて、戸田先生のおっしゃる通りに実践した。
 日蓮大聖人の仰せの通りに、大難と戦い、世界広宣流布を進めてきた。
 自ら誓ったことは、すべて成し遂げた。「有言実行」を貫いた。
 私には、何の悔いもない。若き青年部の諸君もまた、そうあってもらいたい。
 私が、若き日に、どれほど力を尽くして戸田先生にお仕えしたか。
 夜中に先生から電話がかかってきて、急きょ、呼び出される--そうしたことが、何度もあった。車がないので、タクシーをつかまえて、飛ぶようにして先生のもとへ駆けつけた。
 またある晩は、先生のお宅の外に立って、先生をお護りしたこともあった。
 口先ではない。観念でもない。
 私は、師弟のため、学会のために、すべてをなげうって戦った。「師弟不二」で戦い抜いたのである。

常勝将軍たれ
 弘教においても、私は弟子の勝利の歴史を打ち立てた。
 昭和27年(1952年)のことである。この前年、戸田先生は第2代会長に就任され、75万世帯の弘教を誓願された。しかし、折伏は遅々として進まなかった。
 当時、全国には十数の支部があった。しかし、ほとんどの支部が、1カ月で数十世帯の折伏しかできなかった。
 戸田先生は言われた。
 「このままでは、広宣流布は5万年もかかってしまう。大作、お前が立ち上がってくれないか!」
 先生の命を受け、私は蒲田支部の支部幹事として、弘教の指揮を執った。そして、当時の限界を打ち破り、1カ月で200世帯を超える折伏を成し遂げたのである。
 ここから、壁を次々と破れた。500世帯、1000世帯、そして2000世帯--弘教の波動は、大きく広がっていた。
 蒲田での2月闘争が、75万世帯達成への突破口を開いたのである。
 また、その翌年、私は戸田先生の任命で、文京支部の支部長代理に就いた。そして、全国で最下位クラスだった文京支部を、第一級の支部へと発展させた。
 仏法は勝負である。何事も、戦う以上は、勝つしかない。私は、先生から命じられた広布の戦は、断じて勝ち抜いてきた。連戦連勝であった。
 あの豪気な、めったに人をほめない先生が、「大作のおかげだ。お前には本当に感謝している」と何度も言われた。これが本当の師弟である。
 皆さんも「常勝将軍」であっていただきたい。
 戦うことだ。悔いのない、偉大な人生、素晴らしい人生を生き切っていくことだ。その功徳は、生々世々、子孫末代まで全部、流れ通っていく。
 
全国代表協議会での名誉会長のスピーチ
(2007年10月2日聖教新聞掲載)

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