☆2007年7月14日聖教新聞に掲載された随筆・人間世紀の光 ~わが青春のゲーテ㊦の一部引用☆
ゲーテは語っていた。
「私にとって、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現在の生存の形式では、もはやもちこたえられないときには、自然はかならず私に別の形式を与えてくれる筈だからね」
ゲーテと並び立つ、ロシアの巨人トルストイは言った。
「絶対に病気をしない頑丈な健康な肉体は無い。絶対に消滅しない富も無い。絶対に滅亡しない権力も無い。これ等はすべて恒久不変のものではない」
いかに永遠性を志向しても、生きとし生けるもの、すべてが「生老病死」を逃れることはできない。大宇宙の星々も「成住壊空」の流転からは免れない。
大文豪の炯眼は、人生の究極に迫る。しかし、生命の真の実相には、いまだ到達できていないのだ。
永遠不滅の大法則は、妙法しかない。この妙法に則って、広宣流布という「正義の中の正義」の行動に生き抜く生命もまた、永遠不滅である。
ここにこそ、万人が、生老病死の苦悩を、常楽我浄の大歓喜へ大転換しゆく、最高無上の生命の軌道がある。
ともあれ、ゲーテもトルストイも、日蓮仏法の真髄にめぐり合ったならば、どれほど驚嘆し、歓喜雀躍と探究を進めていったことだろう。
◇
ある日の語らいで、十九世紀イギリスの歴史家カーライルの言葉を、私は戸田先生に申し上げたことがある。
「時代の求めるところを正しく認識する智、之を導き正道を踏んでそこに到らしめる勇、これこそいかなる時代をも救済する力である」
すると、先生は間髪を入れずに言われた。
「牧口先生は、そういう力ある英知の人材を育てることを願っておられた。
そして、創価大学をはじめ、創価教育の学校の建設を私に託された。
私の代では間に合わないから、大作、どうか、頼むよ」
私は、創価学園の創立記念日を、牧口先生が平和のために殉じられた「11・18」とした。
さらに、創価大学の開学の日を、戸田先生の御命日の「4・2」。
そして、アメリカ創価大学の開学は「5・3」とした。
初代・二代・三代の生命は、創価教育の大城とともに、永遠に脈動していくのである。
◇
「はでに光るものは、ほんの一時つづくだけです、真実なものは後世になってもほろびることはありません」とは、ゲーテの言葉である。
永遠の時の流れから見れば、人気や名声などは、一瞬の幻に過ぎない。
地道な学会活動こそ、永劫に朽ちることなき、真実の生命の大光を放ち続けるのだ。
ゲーテは、「いっぺん俗世の宝を手に入れると、より高い精神の宝が幻影に見えてくる」と戒めた。
権力の魔性に狂って、真の精神の宝を見失っていく人生は、あまりにも儚い。
正しき師弟の道を踏み外した輩の無惨な末路は、皆様がご存知の通りだ。
日興上人の「原殿御返事」には仰せである。
「もとより、『日蓮大聖人に背く邪師らを捨てないことは、かえって、こちらの罪になる』というのが大聖人の法門であると、よくよく知っていかれるべきである」(編年体御書一七三四㌻、通解)
「破邪顕正」に徹して、悪を断ち切っておかなければ、毒が後世に流れてしまう。
仏法の師弟の世界は、峻厳である。ゆえに清浄無比であり、金剛不壊なのである。
◇
ゲーテは、最晩年、自らの生涯を総括して、宣言した。
「私の著作と私の生活の意味と意義は、純粋に人間的なものの勝利です」
なんと美事な、総仕上げの人生であったことか。
ある日ある時、戸田先生は、私に言われた。
「君は、ゲーテを超えて、書きまくれ!ゲーテ以上の膨大な全集を残してくれ給え」と。
初代・牧口先生の全集も、第二代・戸田先生の全集も、私は、厳然と世に出した。
現在、その後の研究も踏まえ、『牧口常三郎全集』十巻、『戸田城聖全集』九巻が集大成されている。
そして、第三代である私の全集は、既に百巻が刊行された。今後、百五十巻となる予定であり、個人の全集としては、ゲーテをも超えて、世界最大級のものとなる。
戸田先生の弟子として、師とのお約束を、ここにもう一つ果たすことができた。
インドの詩聖タゴールは高らかに謳った。
「偉大なる富も強大なる帝国も、やがては塵芥となるであろうが、精神の所産は不朽の価値を持っている」と。
創価とは、不滅の精神の価値の創造である。
この創価の師弟に生き抜く人生は、永遠に若々しい。
ゲーテは、一生涯、創造の青春を生きた。
「どうすれば、たえず若返ることができるか?」
この問いに答えて、彼は自らの若さの秘訣を明かした。
その詩の一節を、わが友に捧げたい。
「君だってできる
偉大なものに
喜びを感じさえすれば
偉大なものは
つねに新鮮で
人を暖め生気づける」
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